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歴史(れきし)


佐野は古い歴史(れきし)をもつまちです。そもそも「佐野」の名前の由来(ゆらい)は、この地域(ちいき)旧安蘇郡きゅうあそぐん )が、 平安時代へいあんじだい荘園しょうえん発生(はっせい)とともに「 佐野庄さのしょう 」とよばれたことにはじまっています。

ここでは、佐野の歴史(れきし)(から)るうえで()かせない二人の人物(じんぶつ)にスポットをあててみたいとおもいます。

藤原秀郷
佐野市の歴史(れきし)のなかで、もっとも重要(じゅうよう)人物(じんぶつ)といっていい 藤原秀郷ふじわらのひでさと は、佐野市中央(ちゅうおう)にある唐沢山(からさわさん)のあたりを 拠点きょてん として 平安時代初期(へいあんじだいしょき)活躍(かつやく)した 武者むしゃ です。

その 勢力範囲せいりょくはんい はいまの栃木(とちぎ)群馬(ぐんま)の2つの(けん)にまたがっていました。 天慶てんぎょう 3年(940年)の 平将門たいらのまさかど(らん)将門まさかど をやぶったことが有名(ゆうめい)です。またの名を 俵藤太たわらとうた といい、 近江の国おうみのくに (今の滋賀県(しがけん))でのムカデ退治(たいじ)などの 伝説でんせつ がいまもかたりつがれています。

平将門たいらのまさかどの乱…936年に関東地方で平将門たいらのまさかどがおこした 反乱はんらん一族(いちぞく)とうちわ(あらそ)いをおこし、おじの 国香くにか殺害(さつがい)。939年には 常陸ひたち茨城県(いばらきけん))・ 下野しもつけ (栃木県)・ 上野かみつけ群馬県(ぐんまけん))の 国府こくふ を攻めおとし、 新皇しんのう となのった。いちじは関東(かんとう)をしたがえたが、翌年、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)平貞盛たいらのさだもり らにほろぼされた。
  ふじわらのひでさと
藤原秀郷

田中正造
天保てんぽう 12年(1841年)現在の佐野市小中町(こなかちょう)に生まれました。明治24年頃から 足尾銅山鉱毒問題あしおどうざんこうどくもんだい にとりくみ、 衆議院議員しゅうぎいんぎいん に当選しながらもやめて、 鉱毒問題こうどくもんだい天皇陛下(てんのうへいか)直接(ちょくせつ)うったえたことは有名(ゆうめい)です。

田中正造の(かんが)え方は、産業(さんぎょう )環境(かんきょう)共存(きょうぞん)(かんが)えるうえのひとつのモデルとして、今日も生きつづけています。

足尾銅山鉱毒事件あしおどうざんこうどくじけん …栃木県北部(ほくぶ)足尾銅山あしおどうざん から流れ出た 鉱毒こうどく が、渡良瀬川(わたらせがわ)ぞいの人々の生活に深刻(しんこく)被害(ひがい)をあたえた事件(じけん)。「公害(こうがい)原点(げんてん)」といわれています。
たなかしょうぞう りつぞう
田中正造 立像(りつぞう)
たなかしょうぞうのいひん
田中正造の遺品(いひん)



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