第72回企画展「田中正造が愛したもの」、令和2年10月3日~令和2年11月29日、開催

更新日:2020年09月17日

第72回企画展の事業内容の変更のお知らせ

10月3日(土曜日)~11月29日(日曜日)に予定しておりました、第72回企画展「中根東里展」(第70回企画展・令和元年秋の再演)は、新型コロナウィルス感染予防対策のため、関連イベントも含め、来年度に順延することとなりました。心待ちにされて居られた方々には、大変申し訳ありませんでした。

代替事業として下記の通り、第72回企画展は「田中正造が愛したもの」を開催します。当館に収蔵されている田中正造関連の資料の蔵出し展となります。皆様お誘い合わせの上、どうぞご来館ください。

企画展「田中正造が愛したもの」展示の概要

昭和58年に開館した当館は、ご寄贈や購入などにより1万点以上の田中正造関係資料を所蔵し、様々な企画展を開催してきました。今回の企画展では「妻・カツ」「自治の精神」「書くこと」「若者」「小石」「刀剣」という小テーマを設け、展示される機会が少ない資料を中心に展示します。この企画展が、田中正造の様々な側面について考える機会になれば幸いです。

ここでは、主な小テーマの概要と主な展示品を説明します。

1. はじめに

1.はじめに

田中正造は、様々に評価されている人物です。ここに掲載されたコメントは「義人 田中正造翁」に掲載されたものです。著者の柴田三郎は新聞記者で、大正2年9月4日に正造が亡くなると、その翌日、恩師から正造の逸話集を書いてみないかと勧められ、ゆかりの人々へ取材を申し込み、同月25日に本書を出版しました。

正造没後直後の聞き取りであり、現在とは異なる正造に対する当時の様々な評価が分かります。

2.妻・カツ

田中正造の妻・カツは嘉永2年(1849)現在の佐野市石塚町の大澤家に誕生。数え年15歳で正造と結婚しました。

結婚後は、正造に替わって家を守るだけでなく、明治22年(1889)憲法発布の際は、栃木県会議長夫人として首相官邸に招待(41歳)され、明治34年(1901)正造が足尾鉱毒問題で天皇直訴を行った頃は、群馬県海老瀬村で鉱毒被害地救済活動に専念(53歳)。明治43年(1910)姑クマの没後は、小中町の自宅から離れ、姉妹宅へ移りました(62歳)。大正2年に正造をみとり(65歳)、昭和11年(1936)に妹ムラの嫁ぎ先である八下田家に寄寓中、88歳で病没。小中町の正造分骨地に葬られました。

正造とカツは恋愛結婚のようですが、多忙な正造はほとんど家に帰らず一緒に暮らしたのは合計で3年程でした。そのため正造は、妻の名前を忘れたことがあり、反省して「妻を呼ぶには名を呼ぶべし」と日記に記しています。しかし、正造にとってカツは妻として家を守るだけでなく、鉱毒被害地救済活動に参加する同志でもありました。

妻を呼ぶニハ名を呼ぶべし

田中正造日記(明治44年(1911)5月)

○妻を呼ぶニハ名を呼ぶべし。

正造が、妻の名前を忘れたことは事実のようで、自戒を込めて日記に綴っています。

3.自治の精神

天保12年(1841)、現在の佐野市小中町に名主の子として誕生した正造は、10代後半、「村内一切の公務」が委ねられ「非常の権力」をもつ名主となりました。そして、この経験から学んだ自治についての深い関心を、生涯にわたって持ち続けました。

明治14年(1881)、正造や地域の有力者が定めた中節社総則では、自治のため「国憲を立て国会を開き」と、国の基礎となる憲法を定め、国会を開くことや、「広く公益を図り」と地域をゆたかにすることを目指すことがあげています。明治22年(1889)の大日本帝国憲法発布、翌年の国会開設は目標の達成でもありました。

しかし、晩年の正造は、足尾鉱毒問題等の経験などから、憲法や国のあり方にも疑問を投げかけています。

中節社会議録

中節社会議録

中節社の会議録です。明治7年(1874)、無罪が判明して江刺県から帰った正造は、自由民権運動に参加し、明治11年には区会議員に選ばれました。明治13年(1880)には国会開設の請願を目的とした安蘇結合会が結成、この会は中節社に発展しました。この日の会議では、憲法を議論し「議員はニ院制を置く」ことや「宣戦講和の権は帝権に属し」と議決しています。しかし、「国憲草案は本社よりは持参せず、只大眼目とする処を発言するに決す」と書かれ、憲法案は完全にまとまっていなかった可能性があります。

4.書くこと

正造は、ひたすら書いた人で、書簡、日記、書幅などの形で膨大な量の記録を残しました。

正造の生涯は、書くことで多くの時間を費やしましたが、書くことによって自分の意見を主張するだけでなく、思索を重ねていったと考えられます。そして、正造の周辺にいた人々が様々な形でそれを大切に保存してきました。

正造は、自分の好きな和歌を書幅などの形で残しました。当館には様々な作品がありますが、ここでは「あどけなき・・・」という和歌が、どのように書かれているのか比較してみました。

書簡は、「田中正造全集」編さんに伴って五千二百通余りが確認されています。通信手段が未発達だった正造の時代、書簡は単なる情報のやり取りだけでなく、自分の主張を多くの人々に訴えるために、回覧することも行われ、多くの宛名が書かれることもありました。

日記は、当館で所蔵しているものだけで、写本を含めると222冊あります。子供が使用したノートに書いたものも多く、日々の生活はもちろん、思ったこと、考えたことなど、様々なことが書かれています。

最古の書簡

田中正造 萩様宛書簡(推定明治2年)

現存する最古級の書簡で、明治2年春頃に書かれたものです。正造は六角家騒動のため明治維新を牢獄のなかでむかえ、明治元年(1868)11月に領外追放処分となり出獄しました。

5.若者

正造は、多くの若者を応援し、彼らと真剣に議論したことが知られています。正造に将来性を見込まれた若者たちは、正造から大きな影響を受けましたが、意見の相違から別の道を歩きはじめるものもいました。

晩年の正造は、いつも紋付の古い羽織を着て、草履履きで笠を所持、杖を提げて悠々と闊歩、その姿は「一見奇人」のようにみられていたようです。正造の思想は年齢によって変化していきますが、写真からも県会議員や衆議院議員のころの正造と晩年の正造では、別人のようにみえます。正造を慕い共に活動した若者も、時期によって顔ぶれが変わりました。

ここでは、正造が県会議員期から交際していた須永元。国会議員期から交際した栗原彦三郎。国会議員辞職後から交際した黒澤酉蔵と島田宗三。さらに正造が在京の青年のためにつくった平民倶楽部をとりあげています。

須永元関係資料

須永元関係資料

明治21年の須永元日記には、当時県会議長だった正造が須永宅を訪ねてきたことが記され、頻繁に交際していました。ところが、明治39年の須永元日記には「別後45年」(別れて後、4・5年)と記され、疎遠になっていることが分かります。大正2年5月、病に侵されていた正造は、小山に住む須永を訪問し、河川保護について協議、同年9月正造逝去。須永は昭和17年(1942)没。

6.小石

田中正造の遺品に3個の「小石」があります。正造は小石を集めるのが趣味で、正造が所持していたと伝えられる小石を、当館では他に214個所蔵しています。小石の多くは円形のものですが、なかには遺品の小石と似た富士山型のものもあります。

大正2年(1913)1月9日の正造日記には、小石を拾う理由として、「美なる小石の人に蹴られ車に砕かるゝを忍びざればなり。」また、「海浜に小石の美なるを拾ふは、まさつ自然の成功をたのしみてなり。」と述べています。

小石

小石

田中正造が採取した小石

7.刀剣

田中正造は刀を愛好していました。自伝によれば危険な「狂犬」を一刀で切り倒す実力があったと自慢しています。また、明治3年(1870)、江刺県(現在の岩手県)へ赴任する直前の正造は、かつて所持していた「虎徹」の脇差を返してもらい「何となく心丈夫」になったと感想を述べています。

ところが、赴任先の江刺県で、正造の上司が殺害される事件が発生。刀が好きでこの上司と激論を交わしていた正造が犯人として疑われることになりました。正造は、自分の脇差には一点のくもりもないと弁護しましたが、無罪が証明されるまでの約3年間、入獄することになりました。

刀剣

刀剣

田中正造が所蔵していた刀剣(二本は竹光)