田中正造展示室

更新日:2020年07月09日

日本の公害問題の原点といわれる足尾鉱毒事件の解決に一生を捧げた、佐野市出身の田中正造関係資料を多数展示しています。(音声ガイドあります)

天地とともに生きる

田中正造展示室の写真

田中正造展示室

38歳で政治の道に進んだ田中正造は、国民をわが家族、 天地をわが家屋と考えて行動しました。代議士をやめた後も、人権と自然を守るため、いばらの道を歩み続けました。この田中正造立像は、明治43年(1910)の秋に、洪水被害地を調査した当時の姿を表現したものです。

足尾鉱毒被害略図

足尾鉱毒被害略図

足尾鉱毒被害略図

正造の立像の足もとに、鉱毒被害の最も激しかった明治29年(1896)ごろの被害地域を表す略地図を配置してあります。また、5本の小さい柱は、正造の没後、各地に分骨埋葬された墓地の所在地です。

政治の道を志す

「政治の道を志す」の資料

「政治の道を志す」の資料

天保12年(1841)安蘇郡小中村(佐野市小中町)の名主田中富蔵の長男に生まれ、幼名は兼三郎。17歳の時(※)、父の後を継いで名主となりました。その後、一時江刺県(秋田県、岩手県の一部)の下級役人を務めていましたが、明治7年(1874)、郷里の小中村へ帰り、明治11年(1878)には区会議員に選ばれて政治家としての一歩を踏み出しました。明治13年(1880)に栃木県会議員となり、自由民権・国会開設運動に精魂を傾けました。10年間の県会在職中、正造が常に主張していたのは、地方自治の拡充、地方税の削減、小学校教育の充実でした。 (※19歳という説も有)

御用雑記公私日記

御用雑記公私日記

御用雑記公私日記 明治3年(1870)

明治3年3月、正造が江刺県の下級役人をしていたときの日記です。村々を巡回して農民の現実を克明に記録し、また用水施設などの詳細な図を描いています。

政治を志す決意文

政治を志す決意文

政治を志す決意文 明治11年(1878)

『読売新聞』に掲載された「田中正造昔話」の原稿です。正造は政治家となって「一身を以て公共に尽くす」ことを決意し、父親からは、「死んでから仏になるはいらぬもの 生きたるうちによき人となれ」という歌を示して激励されました。

中節社額

中節社額

中節社額

中節社とは、明治13年に正造が中心となってつくった政治活動をする団体で、事務所が春日岡山惣宗寺(佐野市金井上町)内にありました。ここで、国会開設運動の自由民権運動を盛んに繰り広げました。この中節社額は幕末から明治時代にかけて政治家であった秋月種樹の書によるものです。

回章

回章

回 章

中節社会員による演説会の回覧板です。代表幹事であった正造が作成したもので、佐野の各地で演説会を開催しました。小中村のところには、田中正造の名前がみえます。

国会開設建白書控

国会開設建白書控

国会開設建白書控

正造は中節社の国会開設建白書起草委員に選ばれ、梁田郡の山口信治、下都賀郡の今泉正路と連名で元老院へ提出した国会建白書の写しです。

祝辞

祝辞

祝 辞

田中正造が栃木県会総代(栃木県議会議長)をしていた明治23年(1890)3月、栃木県庁舎の落成式で祝辞を述べています。この県庁舎は第3代目(明治23年~昭和11年)で、現代は第5代になります。

足尾鉱毒問題

正造は、明治23年7月に第1回目の衆議院銀選挙に当選以後連続6回当選しました。明治34年(1901)10月の天皇直訴直前に議員を辞職するまで、足尾鉱毒問題の解決に全力を注ぎました。

鉱毒被害写真(安蘇郡界村・麦の立ち枯れの様子)

鉱毒被害写真(安蘇郡界村・麦の立ち枯れの様子)

足尾鉱毒被害関係写真

鉱毒により、麦の立ち枯れの様子や、毒土を除去している様子などが写真からわかると思います。鉱毒の成分は、ヒ素や硫酸銅などで、渡良瀬川流域に大きな被害をもたらしました。当時、新技術を導入していた足尾銅山精錬所の写真もあります。

川俣事件臨検団写真

川俣事件臨検団写真

川俣事件臨検団写真

明治34年10月6日から13日まで、川俣事件関係の前橋地方裁判所判事や検事、弁護団、新聞記者など総勢約100人が鉱毒被害地を調査しました。正造は終始これに付添い、現状を説明しました。この写真は10月13日に佐野駅前で撮影されたものです。

※川俣事件:明治33年(1900)2月13日、渡良瀬川沿岸の鉱毒被害民が、第4回目の大挙上京請願の途中、利根川河畔の川俣で警官隊の弾圧を受け、多数の負傷者と逮捕者が出ました。

直訴状 明治34年(1901) 12月

直訴状 明治34年(1901) 12月

直訴状

正造は国会で何度も足尾鉱毒問題の質問をして、政府の責任を追求しましたが、当時の日本は富国強兵・殖産興業の政策をとっていましたので、正造の主張を聞き入れようとはしませんでした。ついに正造は、明治34年10月23日に議員を辞め、一国民となって12月10日に天皇直訴を決行しましたが、警護の騎兵と警官にさえぎられて失敗に終わりました。直訴は正造の単独行動ではなく、毎日新聞主筆の石川半山、万朝報記者の幸徳秋水らによって計画されたものでした。

直訴は、失敗に終わりましたが、新聞などで直訴の直訴のことを知った人たちは、政府と足尾銅山を激しく非難し、被害農民への同情の声が全国から寄せられました。

展示の品は、議会開院式より帰途の明治天皇に提出しようと試みた直訴状です。この直訴状は、正造の依頼を受けた幸徳秋水が起草し、正造が35カ所の加筆・訂正を決行の直前まで続けました。現在は表装されていますが、美濃紙6枚を半折りにし、こよりで閉じたものでした。

田中正造書簡 田中カツ外宛

田中正造書簡 田中カツ外宛

田中正造書簡 田中カツ外宛 明治34年(1901)12月18日

この書簡は、群馬県海老瀬村の被害民を慰問中の婦人に宛てて、直訴後の12月18日に書かれていました。正造は、直訴当時決死の心境とその後の状況を伝え、体調をくずしていた婦人をいたわり、あたたかかく励ましています。

「……正造は今よりのちは此世にあるわけの人にあらず。去る十日に死すべき筈のものに候。今日命があるは間違いに候。誠に余儀無次第に候。……」

谷中村問題

谷中村復活を期する請願書

谷中村復活を期する請願書

川俣事件とその後の裁判や直訴事件によって足尾鉱毒問題への世論が高まり、時の桂内閣は、第2次鉱毒調査委員会を設けました。この審議段階で、足尾銅山を存続させ、渡良瀬川下流の谷中村をつぶして遊水池をつくる計画が進められると、正造は谷中村へ村民とともに行動しました。正造は谷中村の復活を願い、関東各地の河川を調査して政府の治水政策の誤りを正そうとしました。

日本新聞記事・谷中村民家強制破壊後の物品置き場写真

明治39年(1906)7月1日の谷中村の廃村告示後、多くの村民が移住しましたが、最後まで移住に反対し続けた残留民に対し、土地収用法に基づき、翌年の6月から7月にかけて強制破壊が実施されました。当時の新聞記事や写真からその様子がわかります。

谷中村民家強制破壊後の物品置き場写真

谷中村民家強制破壊後の物品置き場写真

日本新聞記事

日本新聞記事

田中正造書簡 原田定助宛

田中正造書簡 原田定助宛

田中正造書簡 原田定助宛 明治40年(1907)7月12日

強制破壊後の辛い状況を、正造は妹リンの子で正造の支援者であった原田定助に伝えています。

「見るもの皆酸鼻。昨夜も亦暴風雨にて小屋の屋根ふきめくり、雨はふりて老幼までもみのかさにて終夜夜をあかし、今朝の顔色蒼々、見るもの皆酸鼻、下野は何の面目。」

利根・渡良瀬両河川水害見取図

利根・渡良瀬両河川水害見取図

利根・渡良瀬両河川水害見取図 田中正造筆 大正元年(1912)12月

大正元年12月23日に、谷中村不当廉価買収事件に関して、東京控訴院に提出された5枚のうちの1つです。政府の治水政策の不備により、洪水の際に利根川が逆流し、多くの地点で堤防が決壊する状況を示しています。

遺品

展示の写真

田中正造遺品

遺品の写真

合切袋とその中身

大正2年(1913)7月、正造は胃がんに冒されながらも、河川調査の原稿を印刷して出版費用を調達しようと、足利まで出かけました。その帰りの8月2日に下羽田(佐野市下羽田町)の農家の庭先で倒れ、9月4日、多くの人たちに看取られながら亡くなりました。

倒れたときに身につけていたものが、管笠と合切袋でした。袋の中には、河川調査の草稿、新約全書、鼻紙数枚、採ったままの川海苔、小石3個、帝国憲法とマタイ伝の合本、日記3冊がありました。小石収集は正造唯一の趣味だったといわれています。

関連資料

大正2年9月6日に雲竜寺(群馬県館林市)で正造の密葬を行い、佐野の富岡で荼毘に伏し、10月12日、春日岡山惣宗寺で本葬が行われましたが、数万の人が参列したといわれています。

田中正造翁葬儀決算報告書

田中正造翁葬儀決算報告書

田中正造翁葬儀決算報告書

葬儀の時の決算報告書で、全国各地から多くのお悔やみが寄せられ、たくさんの人たちが集まったことを示しています。大隈重信、尾崎行雄の名もみえます。正造と大隈重信は立憲改進党結成以来の政友で、大熊は正造の葬儀で弔辞を述べています。

分骨地写真

春日岡山惣宗寺で正造の葬儀が行われた後、遺骨は彼を慕う人々の要望で、正造誕生地墓所(佐野市小中町)、春日岡山惣宗寺、雲竜寺、田中霊祠(栃木市藤岡町)、北川辺霊場(埼玉県加須市)の5か所に分骨されました。

北川辺霊場

北川辺霊場

田中霊祠

田中霊祠

雲龍寺

雲龍寺

春日岡山惣宗寺

春日岡山惣宗寺

誕生地墓所

誕生地墓所

この記事に関するお問い合わせ先
佐野市郷土博物館

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