宗綱VS小田原北条氏
天正2(1574)年~7(1579)年頃、父、昌綱の死後、佐野家を継承したのは、弱冠15歳の宗綱です。宗綱は勇猛果敢な若武者として伝えられていますが、その勇猛さが災いし、天正14(1586)年頃、所領争いを繰り返してきた足利方に討ち取られ、若くして命を落とした悲運の武将としても知られています。
しかし、短い期間の城主ながらも、早い時期から発給文書が認められ、優れた領国経営をしたようです。また、織田信長などの中央政権とも早くから連絡を取っていたり、信長方として上野(こうずけ)に出陣もしました。
信長の死後になると、北条氏による北関東侵攻の圧力が更に増し、佐野周辺もその最前線となっていきました。天正12(1584)年には関東を二分する戦いとされた、「沼尻合戦」が三毳山の南方で展開されています。8万余の北条氏方に対し、佐野方は2万余の反北条氏連合の佐竹氏方に付くことになり、両者の対たいじ峙は3カ月にも及びました。
時代の大きなうねりのなかで、唐沢山城を拠点とする佐野周辺が、歴史の大きな舞台となっていたことを知ることができます。
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更新日:2019年12月02日