北条氏忠の入城と、西側根小屋の整備
若き当主であった宗綱の突然の死によって、佐野家は後継ぎ問題を巡って混乱したとされます。この頃、小田原北条氏は北関東へ勢力を伸ばし、上野から下野南部にまで支配が及ぶようになっていました。佐野家では、親北条氏派と反北条氏派で激しく争ったとされています。そして、北条氏康の六男とされる、氏忠が佐野家に養子として入ることになります。この年は天正13(1585)年とも、同14年ともされています。
氏忠の佐野領支配は、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原征伐までの5年程でした。この間、秀吉と北条氏との緊張が高まると、唐沢山城の整備が進められたことを示す文書の記述も残されています。それらには、「根小屋」や「根古屋」、「堀」、「宿構」、「宿構の芝土居」など、要所の名称が読み取れ、根小屋の防備を重視した様子がうかがえます。この根小屋とは、栃本側の唐沢山西側の麓を指しています。
関東へも歴史の大きな転換期が迫りつつあった頃、唐沢山城周辺でも緊張が高まり、その渦中にあったことが分かります。
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更新日:2019年12月02日