天徳寺宝衍と秀吉

頭頂部が黒い角のような形をした天徳寺が秀吉から賜ったという龍綺兜の写真

天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原北条氏攻めに際して、豊臣軍の関東への案内役を務めたのが、佐野天徳寺宝衍です。

天徳寺は、須花坂の戦いで討ち死にした佐野宗綱の弟(叔父との説有り)で、この時には、佐野を離れて上方(京都)で、秀吉の側近として、秀吉と関東の諸大名との間を取り次ぐ重要な役割を担っていました。

この天徳寺が、北条方から唐沢山城を奪還するのは、小田原攻めが始まった後の、同年4月末のこととされています。

しかし、地元に残されている覚書きなどのなかには、同月初旬に行われた豊臣軍による北条方の皆川城(栃木市)攻めに、すでに佐野勢が加わっていたことを記しているものもあります。

このことから、唐沢山城はもっと早い時期に、北条方の支配を離れ、天徳寺の影響下にあった可能性も考えられます。

同年7月、3カ月におよぶ籠城戦の末、ついに小田原北条氏は開城・降伏し、秀吉の天下統一事業は大きく進みます。

この時の功績により、天徳寺は秀吉の許しを得て、佐野家の家督を継ぐことになります。

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更新日:2019年12月02日