関ヶ原と信吉の転機
天徳寺宝衍の後をうけ、佐野家に婿養子として迎えられて家督を継いだのが佐野信吉です。信吉の父・富田知信は近江国の出身で、豊臣秀吉に重用されていました。そのため、信吉の佐野家への婿入りには秀吉の意向が反映されていた可能性が高いと考えられます。
唐沢山城跡の本丸周辺に見られる高石垣は、今日までその姿を残していますが、この堅牢な石垣を築くことができたのは、天徳寺宝衍や信吉の時代に秀吉とのつながりを通じて西日本の高い技術を取り入れることができた結果と考えられます。
しかし、秀吉の死後に家康の勢力が増すと、慶長5(1600)年の会津征伐の際に、信吉は家康からの命で、小山城内の普請とその周囲の陣小屋の建設を行っています。そして関ヶ原の戦いが開始されると、信吉は北方への抑えとなる働きをしています。
こうして、信吉は豊臣と徳川の天下の分け目のなかで、一族の存続をめぐって徳川方への転身という重要な決断を下しました。
しかし、信吉はこの戦いの同時期に佐野城(現在の城山公園一帯)へと移城することとなり、唐沢山城の最後の城主となっていきます。
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更新日:2019年12月02日